ロータリーの歴史
先週に引き続き、東京ロータリークラブの設立とその後の様子を追ってみます。
1920年(大正9年)10月20日に設立され
毎月1回、第2水曜日に例会を行う日本で初めてのロータリークラブとして活動を始めました。
東京クラブの会員の選考は極めて厳格で、超一流人である上に英語の話せる人という条件があり
立派な大実業家ばかりの集まりでした。
しかしながら定款細則などに対する関心が薄く、出席も悪かったのでクラブの存続も危ぶまれるほどだったようです。
ところが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で大きな転機を迎えます。

RIにも東京、横浜が壊滅したとの報が伝えられ、
震災から3日後の9月4日にはRIから以下の電文が届きました。
"DEEFEST SYMPATHY ROTARY INTERNATIONAL AND ALL ROTARYCLUBS. IS THERE ANY PARTICULAR THING WE CAN DO"
RI及び全RCを代表して深甚なる同情の意を表す。なんでも手伝うことがあれば幸いです。
そして当時のRI事務総長チェスレー・ペリーは、直ちに25,000ドルの大金を義援金を東京クラブに送ってきたのです。
これが切っ掛けとなって、シカゴRCから1,500ドル、サンフランシスコ、ニューヨーククラブから1,000ドル、
その他各国の503におよぶクラブから続々義援金や救援物資が送られて来て、
その額も89,000ドルに達しました。(この金額は現在の140億円に達するという説があります。)
これを見て腰を抜かすほど驚いたのが米山氏はじめ日本のロータリアンでありました。
今までロータリーなどたいした組織ではないと馬鹿にしていましたが、
初めてロータリー運動の何たるかを知り、これは大変な組織だということに気が付きます。
東京RCでは、この義援金を東京、横浜の小学校の再建や被災者救援などに使うとともに、
この世界のRCからの奉仕活動に具体的に接して、これまでのロータリー活動を猛烈に反省したのでした。

当時の義援金に関する記事(参照:ロータリーの原風景を辿る)
そして大震災から2ヵ月半ほどたった1923年(大正12)年11月14日の臨時総会で、月1回例会の特権を放棄し、
標準定款を採用して、毎週1回例会を開くことを決定し、会員もよく出席するようになったのです。
その後、東京RCでは被災者保護として、東京孤児院に新築一棟を寄贈して、
これをロータリー・ホームと名付け、以降10年後の修理を含めて東京クラブの社会奉仕の事業として、その維持がはかられました。
奇しくも大震災によってロータリーの本質が理解されることになり
日本のロータリークラブが、本当の意味でのロータリークラブとして活動を始めることになったのです。
大震災のあった1923年は、ロータリーの奉仕理念を表す唯一の文書として現代まで受け継がれている
決議23-34が採択された年でもあります。
関東大震災はこの決議23-34が採択された直後だったという事で、日本のロータリークラブだけではなく
逆に、RIや世界のクラブにも大きな影響を与えたのではないかと考えられます。
決議23-34(社会奉仕活動に対する方針 )
http://www.rotary.or.jp/material/23-34/material_ketugi23_34_j.html
ロータリーの歴史シリーズとして書いてきましたが、残すところあと1回となりました。
最後は四つのテストについてです。
つづきは次回に。
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1920年(大正9年)10月20日に設立され
毎月1回、第2水曜日に例会を行う日本で初めてのロータリークラブとして活動を始めました。
東京クラブの会員の選考は極めて厳格で、超一流人である上に英語の話せる人という条件があり
立派な大実業家ばかりの集まりでした。
しかしながら定款細則などに対する関心が薄く、出席も悪かったのでクラブの存続も危ぶまれるほどだったようです。
ところが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で大きな転機を迎えます。

RIにも東京、横浜が壊滅したとの報が伝えられ、
震災から3日後の9月4日にはRIから以下の電文が届きました。
"DEEFEST SYMPATHY ROTARY INTERNATIONAL AND ALL ROTARYCLUBS. IS THERE ANY PARTICULAR THING WE CAN DO"
RI及び全RCを代表して深甚なる同情の意を表す。なんでも手伝うことがあれば幸いです。
そして当時のRI事務総長チェスレー・ペリーは、直ちに25,000ドルの大金を義援金を東京クラブに送ってきたのです。
これが切っ掛けとなって、シカゴRCから1,500ドル、サンフランシスコ、ニューヨーククラブから1,000ドル、
その他各国の503におよぶクラブから続々義援金や救援物資が送られて来て、
その額も89,000ドルに達しました。(この金額は現在の140億円に達するという説があります。)
これを見て腰を抜かすほど驚いたのが米山氏はじめ日本のロータリアンでありました。
今までロータリーなどたいした組織ではないと馬鹿にしていましたが、
初めてロータリー運動の何たるかを知り、これは大変な組織だということに気が付きます。
東京RCでは、この義援金を東京、横浜の小学校の再建や被災者救援などに使うとともに、
この世界のRCからの奉仕活動に具体的に接して、これまでのロータリー活動を猛烈に反省したのでした。

当時の義援金に関する記事(参照:ロータリーの原風景を辿る)
そして大震災から2ヵ月半ほどたった1923年(大正12)年11月14日の臨時総会で、月1回例会の特権を放棄し、
標準定款を採用して、毎週1回例会を開くことを決定し、会員もよく出席するようになったのです。
その後、東京RCでは被災者保護として、東京孤児院に新築一棟を寄贈して、
これをロータリー・ホームと名付け、以降10年後の修理を含めて東京クラブの社会奉仕の事業として、その維持がはかられました。
奇しくも大震災によってロータリーの本質が理解されることになり
日本のロータリークラブが、本当の意味でのロータリークラブとして活動を始めることになったのです。
大震災のあった1923年は、ロータリーの奉仕理念を表す唯一の文書として現代まで受け継がれている
決議23-34が採択された年でもあります。
関東大震災はこの決議23-34が採択された直後だったという事で、日本のロータリークラブだけではなく
逆に、RIや世界のクラブにも大きな影響を与えたのではないかと考えられます。
決議23-34(社会奉仕活動に対する方針 )
http://www.rotary.or.jp/material/23-34/material_ketugi23_34_j.html
ロータリーの歴史シリーズとして書いてきましたが、残すところあと1回となりました。
最後は四つのテストについてです。
つづきは次回に。
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