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ロータリーの歴史
先週の続きとなりますが、ロータリーの歴史シリーズです。

奉仕の概念を取り入れようとしたことで、奉仕派vs親睦互恵派の対立を産む自体になり
ロータリークラブは存続の危機とも言える事態になっていました。

ポールハリスは会長辞任、シェルドンは宣伝拡大委員長罷免となり、
ハリスの後任はハリー・ラグルス
シェルドンの後任にはチェスレイ・ペリーが選任され、
奉仕派を追い出す形で親睦互恵派が勝利したことは先週述べました。

では、今日のような奉仕の概念は再びどのようにして戻って来たのか、
今週はこの辺りを追ってみます。
チェスレイ・ペリーとは

シェルドンの後任になった、チェスレイ・ペリーが重要な役割を果たします。

チェスレイ・ペリーは高卒でしたが、学生時代からグループ活動の管理能力に優れ
米西戦争ではメキシコ将校としてその能力に磨きをかけ、退役後にシカゴ図書館の役員になり
その事務能力は超一流でシカゴクラブでも一目置かれる存在でした。

シェルドンの後任になったのも、その管理能力をもって
ハリスとシェルドンの独走を抑えるためだったと言われています。

この流れでは、ペリーは親睦派だったのかと思われますが違いました。
ペリーはこれを抑えるどころか、シェルドンの方針を受け継ぎ
ハリスの拡大の方針に賛同して、彼の活動を全面的に支えさらに発展させようとしたのです。


1910年当時にはシカゴクラブの会員数は300人前後まで増え、
この大半がまだ親睦互恵派でした。
ただ完全に真っ二つというわけではなく、親睦の上に奉仕を与えようとする「中間派」もいて、
この中間派が奉仕派と親睦互恵派の接着剤的な役割を果たして
時には、まとめ役として主導権を握りながら、結果的に奉仕の概念、拡大の方針を植え付けることに成功します。

ペリーは、奉仕派寄りの中間派だったのではないかと推察します。


しかし、これも一筋縄ではいかず
1910年、ハリーラグルスの会長任期満了後の改選では第一候補として推されながら
対立候補のラムジーと激烈な選挙戦の後に敗北を喫してしまいます。

この時点では、奉仕の概念の導入でクラブを根本的に変えてしまおうとすることには
まだ激しい抵抗があったようです。


この事態から、チェスレイ・ペリーはシカゴクラブのクラブ活動としてのロータリーの拡大をあきらめました。
ポール・ハリスもまた、会員増強、積極的な拡大、奉仕概念の確立という、彼の革命的な試みを支持する仲間と共に、
新しい組織を作る途を選ばざるをえなくなりました。

そこで管理能力に優れるペリーは、大胆な作戦を決行します。

拡大を別立ての組織によって統一管理を行い、シカゴクラブもその構成の1単位となるうな連合組織を作ろうとしたのです。
この組織が1910年に出来上がった、全米ロータリークラブ連合会「National Association of Rotary Clubs」でした。

これを境にして、奉仕・拡大派の活動の場はシカゴ・クラブを離れて全米ロータリークラブ連合会へ移っていきます。

このようにして、シカゴ・クラブの親睦を害したロータリー拡大の問題は一応解決され
チェスレイ・ペリーは全米ロータリー・クラブ連合会第一回大会の議長に選任され,
そしてポール・ハリスを初代会長に選任し、自らその幹事となったのです。



The National Association of Rotary Clubs の第一回年次大会の様子


なかなかに力技といいましょうか、ウルトラCといいましょうか、
シカゴクラブを配下に置いてしまうような組織を作ってしまおうという発想がすごいですね。


チェスレイ・ペリーとともに、
奉仕の理念の提唱と確立において、アーサー・フレデリック・シェルドンの存在も忘れてはなりません。
宣伝拡大委員長を罷免されるような、熱心すぎる奉仕派だったシェルドンもまた連合会で活躍します。

つづきはまた次回。


 

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