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ロータリーの歴史
今回は先々週から引き続き、ロータリーの歴史シリーズです。
ロータークラブ最大の危機?
定款に奉仕の概念を掲げ、シカゴに公衆トイレを設置して初めての奉仕活動を行い、
内外ともに奉仕を中心とした組織に変わったことをアピールしたかにみえたロータリークラブでしたが、
そこに至るまではそう簡単なものではなかったようです。

1907年のポールハリスの会長就任から1910年のラムジーの会長就任までの3年間は
シカゴクラブはまさに熾烈な「闘争の場」だったようで、実際どのような状況だったのかを追ってみました。

当時のシカゴ・クラブの会員数は150名前後でしたが、
新しい会員の大部分は親睦と互恵を目的に入会したものであり、そこに奉仕という概念が導入され混乱し始めます。

そして、奉仕派vs親睦互恵派
という対立が勃発してしまいます。


奉仕派の大将は創始者ポール・ハリスでした。

創始者の鶴の一声であっさり決まるほど甘くはなく、対立は想像を絶するものだったようです。

ポール・ハリスの方針に積極的に賛同したのは、ドナルド・カーターや、
1908年に入会したアーサー・フレデリック・シェルドンなどの小数派で
クラブ内で圧倒的多数を占めていた[親睦・互恵派]との間で論争が繰り広げられました。

【奉仕派】には以下のメンバーがいたとされています。
ポール・ハリス
ドナルド・カーター
アーサー・フレデリック・シェルドン
シルベスタ・シール
アル・ホワイト
ガスターバス・ローア
アーサーウィン
など少数



1908年に会長に就任したポール・ハリスは、ロータリークラブを全米各地に拡大しようとします。
その根底には、「社会一般の向上はシカゴだけに限定する必要はない」という
ドナルド・カーターの言葉があったといわれていて、奉仕派の理念に基づいた考えだったようです。

そして、その実現のため宣伝拡大委員会を設置して、初代委員長に奉仕派急先鋒シェルドンを任命します。


アーサー・フレデリック・シェルドン

しかしながら、これが裏目に出ます。
シェルドンは、奉仕や拡大についてクラブ例会の大半をその報告に使い反発を招いてしまい
シカゴクラブは逆に拡大について反対的な態度をとるようになってしまいます。

結果的にシェルドンは委員長を罷免されます。
シェルドンを委員長の座から引きずり下ろすことで平和が回復したとも言われるほどに
緊張を生む存在だったようです。


シェルドンの委員長罷免を切っ掛けに、ポール・ハリスが2期目の途中で会長職を辞任するまでに至ります。
(表向きは健康上の理由となっている)

ハリスの辞任後、親睦を盛り上げていたロータリーソング生みの親でもあるハリー・ラグルスを会長に選び
シェルドンの後任にはチェスレイ・ペリーを選任しました。

つまりこの段階では、親睦互恵派が勝利しています。


ハリー・ラグルス       チェスレイ・ペリー


奉仕の概念を取り入れたはずのシカゴクラブから奉仕の概念が消えようとしていました。

この後どのようにして危機を乗り越えたのか、再び奉仕の概念が戻ってくるのか...
シェルドンとペリーのふたりが鍵を握ります。

つづきは次回に。


 

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