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ロータリーの歴史
またまた引き続き、初期のロータリークラブを追ってみます。

1907年、定款に奉仕の概念が加わり
その後、ポールハリスは会長に就任すると、兼ねてからの考えを実行に移して、活動方針を大きく転換し、
会員増強と他都市での新クラブ設立と地域社会への奉仕活動を提案しました。

とはいえ、親睦が目的のビジネス集団から奉仕の精神をもったクラブへ変わろうとしていた初期のロータリークラブも
どういった奉仕をするのか実際に活動をするのはなかなか難しかったようです。

私ども愛知ロータリーEクラブもまだ出来て1年経ちませんので
実際どういった活動をしていったらいいのか手探り状態ですが、ひょっとしたら同じ経験が出来ているのかもしれませんね。
チャーターメンバーの特典でしょうか...
ロータリークラブ最初の奉仕活動は公衆トイレだった。

このお話は有名で新米ロータリアンの私も知っています。
改めてどういった経緯だったのか調べてみました。

***
ポールは、たまたま出席した商工会の集まりで、ループ地区(シカゴ中心部)の通行人は公衆便所がないために不便な思いをしているという話を聞きこみ、
これを奉仕活動を実践する絶好の機会だと捉えました。

シカゴ・クラブは、早速、グレート・ノーザン・ホテルに25の市民団体の代表を集め、
連合公衆便所建設委員会を設立して、行政に働きかけますが、
既に施設内にトイレを持っていることを強く主張する、シカゴ醸造組合と百貨店組合の激しい妨害を受けます。

当時のループ地区で顧客用にトイレを供用していたのは、百貨店かバー位しかなく、
トイレを借りる必要に迫られた通行人は、女性は化粧品を買うことと引き換えに百貨店に入り、
男性はビールの一杯も飲みにバーの扉をくぐらなければなりませんでした。
もし、無料のトイレができれば、これらの店の収入に影響を与えることは、誰の目にも明らかでした。



なにかやるには反対がつきものですが、トイレがそれほど貴重だったのでしょうね。
現在でもコンビニのお世話になって無駄な買い物をしてしまいますから、この当時では尚更かもしれません。
 
トイレの建設開始まで2年かかる

交渉は長引き、土地を掘り起こすまでに2年の歳月が掛かってしまいましたが、
最終的には、建設用地と20,000ドルの補助金を市当局から受け取ることに成功して、
1909年に市役所と公立図書館の横に二つの公衆便所が出来あがったのです。
公衆便所設置は市民のニーズに従って市民団体を組織し、行政当局に働きかけて、実施にこぎつけたものであり、
俗にいわれるような単に金銭を拠出した団体奉仕活動ではなかったことに注目しなければなりません。



なかなか大変だったようですが、やっと出来上がりました。
最初の奉仕は、寄付からではなく行政からの補助によるものだったのですね。

それもそうです、奉仕の概念が取り入れられたとは言え、まだクラブ全体でまとまっていないのですから。
財団もありません。

親睦一辺倒だったロータリーが初めて行った奉仕活動でしたが
これ以後数年の間、親睦と奉仕を巡ってシカゴ・クラブは大揺れに揺れることになってしまいます。

つづきは次回に。


参考:ロータリー歴史探訪


 

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