メークアップ
今週の例会
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ロータリーの歴史
先週に引き続き初期のロータリーを追ってみます。
初期のロータリークラブはビジネス集団だった。
例会のスタイルが徐々に確立していき、
一人一業種制定例の会合を原則にした職業人の親睦団体として、
多くのアクティブな会員の参加を得て、加速度的に会員の数が増加していきました。

しかし、その頃の様子は今と大分違ったようです。
ロータリーが発足した当初は、奉仕の概念は芽生えておらず、限定会員制度の「社交クラブ」でした。
その目的は単に、会員相互の親睦を深めることでした。 


そして、お互いに親睦を深めていた社交クラブの中に、やがて会員の事業にお互いが利便を図り合う
[相互扶助]の考え方が発生してきます。

親睦団体と言う事もあり、組織の決めごととなる定款が出来たのは
クラブ発足からしばらく経った、およそ1年が経過した1906年1月でしたが

その定款の内容はたったこのふたつでした。

 

<シカゴ・クラブ定款>
1.本クラブ会員の事業上の利益の増大
2.通常社交クラブに付随する親睦およびその他の特に必要と思われる事項の推進


この定款の第一が、会員の事業上の利益の増大という事から
かなりのビジネスライクな組織だったのが伺えます。

具体的には、
"
印刷屋のラグルスは、自分の保険を保険代理店のニュートンと契約します。
その代わりに、ニュートンはラグルスから文房具や用紙類を買います。二人はシールに石炭を注文し、
シールは当然自分の保険と印刷を二人に頼みます。
ハリスはごく当たり前のこととして、みんなの法的な問題を喜んで引き受け、
汚れたシャツはアーヴィンの洗濯屋に届け、洋服の注文はショーレーに頼みます。
彼らは果てしなく関係の続く、自己中心的な相互扶助のグループを作りあげたのです。

(参考:ロータリー歴史探訪)

そして当時のシカゴ・クラブのパンフレットには、

・会員になることによって事業上のメリットが得られる
・会員が商品や原材料を購入するときには、会員相互の取引が義務
・原価で提供することが原則 


であることが明記されていました。

このように会員相互の[互恵取引]が主体のクラブだったようです。


1905年のシカゴの街並みと様子

当時は情勢も不安定で、ビジネスでの成功が勝者の証という時代で
この時代にマッチしたロータリークラブの方針により発足から9ヶ月後の1905年末には
シカゴクラブの会員は30人にまで一気に増え、1909年にはシカゴクラブだけで300人にまで増えました。

しかし、この当初のクラブのあり方には賛否両論あり、この後クラブを二分する大きな事件へと発展します。
ここから奉仕理念を持ったクラブへとどうやって変遷していったかは次回お話し致します。


この他、ロータリーの歴史について書いています。
よろしければ、ご覧ください。

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ロータリーマークについて
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=42

ロータリークラブ第1回目の会合について
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=43

ロータリークラブ創立メンバーについて
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=44

1933年国際大会でのポールハリスの演説ムービー(翻訳)
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=45

ロータークラブ発足時の様子(2-3回目の会合)
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=46

ロータリークラブの名前がどうやって決められたか
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=47

例会のスタイルがどのようにして出来上がったのか
http://aichi-eclub.jp/meeting_archives/detail.php?no=48

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